2014年6月19日木曜日

ロシア絵本画家と「バレエ・リュス展」

 





初日の国立新美術館の「バレエ・リュス展」に行ってきました。バレエ・リュスとは20世紀初頭のディアギレフ率いるロシア・バレエ団のこと。実はこの展覧会を知ったのがその初日当日の朝。ちょうど、ビリービンのことで「芸術世界派」について今週ブログでふれたばかりだったこともあり、突撃見学することに。

 

昼下がりの乃木坂は曇り空。湿度は高いのでしょうが、気温が低いので助かりました。でも、薄暗い展示室の中に入るとそこはもう別世界、時を経てなお華やかなバレエの衣装の数々が立ち姿で出迎えてくれます。公演ごとにまとめられて配置されている衣装たちの存在感!ディアギレフがパリを始めとする各国の観衆を驚かそう、楽しませようと仕掛けたバレエという「総合芸術」。衣装が特に重要な芸術であったことをその意匠や凝った手仕事からあらためて確認でき、納得です。本来、バレエ衣装は遠くで眺めるもの、こんなに近くでは当時の観客だって見ることはできなかったはず。近くだからこそ、大胆な手縫いの跡や、作り手の工夫や苦労?が見てとれて興味はつきません。

 

「青神」衣装は右端
 一番好きな衣装は、やはりレオン・バクストがデザインした「青神」のチュニックでしょうか。実は男性ダンサーの衣装だという驚きも含めて印象に残りました。パッチワーク、リボンテープ使い、刺繍、それに舞台できらきら光ったであろうビーズ的なものやボタン的なものがこれでもかと施されています。単純にダンサーは重くなかったのかなぁなどと心配になるくらいです。

 

 で、展示されているバレエ衣装の森を歩きながら、ふと、これらの衣装が人々を魅了し続けているのは、当時のダンサーの魂と拍手喝采の記憶が布地にしみついているからなんだろうと考えてみたり。また、そもそも衣装というものは。ダンサーの肉体と合体して初めて完成されるものだとしたら、今、この衣装たちが私たちに見せている姿は、不完全で虚しいもの…というか、実際、ダンサーが着て踊った時に一番輝くんだろうな、それを見たかったなと思ったり。本人?(衣装)たちも、もう一度舞台に立ちたいって思っているんだろうなと思ったり。貴重なものだから無理だけど、回して見せたり、光を当てたりっていう展示があっても面白いかなと思ったり。


図録の付録マンガ!
さて、今回の突撃見学ですが、もしかしたら、ビリービンがデザインした衣装があるかもしれない、舞台美術関連で何か見ることができるかもしれない…そんな期待が実はあったのです。絵本画家の他分野での活躍ぶりの「実際」を是非見てみたかったわけです。バレエ・リュスについては「第一回目の公演にビリービンも舞台美術で参加している」(「カスチョール8号」)とありましたし、衣装や舞台美術で結構活躍したのは確かなので、今回の展示で何らかの彼の仕事が見られるかも…という期待がありました。
 

結論から言いますと、今回展示されている各公演の制作者リストの衣装デザインにも舞台美術にも彼の名前を見つけることはできませんでした。ただ、ざざーっとしかまだ目を通していない分厚い図録「魅惑のコスチューム バレエ・リュス展」の中で、今のところ、たった一か所ですが、ビリービンの名前を見つけることができました。ディアギレフが1908年に上演したオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」についての記述で、第三幕「ポーランドの場」のデザインを担当したアレクサンドル・ブノア※(後述)が、いくつかの衣装はデザイナーのイワン・ビリービンによるスケッチを元に作ったとありました。バレエではなくオペラについての記述ですね。 

ブノアの絵本より
そして、ブノアはビリービンについて「彼はロシアの古い時代の歴史についての最高の有識者の1人だ」と言っています。ビリービンがロシアの歴史・民族研究をかなりやったということは知っていましたが、その研究がたいしたもの!だったという第三者からの証言です。芸術家仲間から一目置かれ、信頼されていたということがこの一文でよくわかりました。

 

 それで、先ほどの※アレクサンドル・ブノワ!ですが私としては絵本画家として知っているアレクサンドル・ベヌアと同一人物だと初めわからなくて、図録で知ってびっくり。(ロシア人の名前の呼び方って…しかし何故にブノア?)芸術世界派の主要メンバーとは知っていましたが、バレエ・リュスで衣装デザイナーとしてこんなにも活躍していたとは。しかも、ビリービンとオペラの衣装についてやりとりをしていたことが今回わかったわけです。

  ビリービンでは果たせませんでしたが、「ロシア絵本的日常」的には、ロシア絵本を通して知った画家の多才能ぶりの実際をブノアで間近に見ることができ、今回の突撃美術館見学はまずまずの収穫でした。行ってよかったです。

ロシアの絵本・カランダーシ

2014年6月17日火曜日

ビリービン再訪(絵本誕生まで)


5月に教文館で2回「ビリービン」と「レーベジェフ」についてお話をする機会を得ました。「島多代の本棚 絵本は子どもたちへの伝言」展でのギャラリー・トークです。そして、それは、私としてみれば、ビリービンとレーベジェフ再訪というか、再発見の機会となりました。当日、お話しできなかったことも含めてここにまとめることにしました。

  第1回目はビリービン。
 ざっくりとした生涯と作品は把握しているつもりだったのですが、さらに「へえ」とか「ほお」とか「だからなのか」とか「それにしても」とひとりごちながら、あらためて人となりや作品を知っていくこととなりました。トークのテーマは「ビリービンからの伝言」としました。展示会のテーマにかけたのですが、短い持ち時間(30分)だからこそ、テーマを設けて内容を収斂させなくては…との願いもありました。

 

【ビリービン絵本誕生まで】

今回のトークの準備では、09年の島多代氏の講演会でとったメモにあった「全ては関連している」という言葉が指針となりました。その絵本なり作家なりの経歴はもちろんですが、その背景、周辺を知るということですね。準備の時間は限られていましたし、できる範囲ででしたが。

 
イワン・ビリービン(☆)
まずは、歴史的背景のおさらいです。ビリービンが生まれたのは1867年。活躍したのが1900年初頭~。このあたりは帝政崩壊前夜。1861年に農奴解放がありましたが、生活が変わらぬ農民たちの運動、労働者のストライキ、ナロード運動(人民の中へ)などが高まりを見せ、19世紀終わりには社会主義党の誕生、1904年に日露戦争がはじまり、それがますます人民の生活を苦しめ、05年には血の日曜日事件が起こり…そして1917年の革命へ。とんでもなく大きな歴史の変化の波。その中でビリービンは何を思って絵本を作ったのか、ということになります。 



さて、一方で、ロシアの絵本の歴史を資料でたどります。おおざっぱにいえばビリービンからその歴史が始まったという記述も多いですね。ロシア絵本の一番星ビリービンです。しかし、「それ以前」および同時期の絵本についても(もったいない!ので)ここでは触れたいと思います。




ポレーノワ画(※)
 『ロシア児童文学の世界』(国立国会図書館国際子ども図書館刊)によると、19世紀後半、それまでは一部の貴族のためだけに作られていた挿絵入り児童文学書が、印刷技術の発達もあり安価になり市場に流通するようになり、西欧の模倣翻訳絵本などが出回りましたが、内容的な「質」はあまり高いものではなかったようです。これを「大衆児童文学のブーム」の時代というようです。

 しかし、これに対抗して、V.ヴァスネツオフ(18481926)、エレーナ・ポレーノワ(184198)、そしてエリザベータ・ビヨーム(18431914?)などが芸術性の高い絵本を発表しています。ヴァスネツオフは「移動展派」(ペテルブルク美術アカデミーに対抗する写実主義の画家たち、移動展覧会を各地で開く)の画家です。ビヨームは影絵作家としても活躍した女流画家です。




眠り姫(★)美しい!
  その中でもヴァスネツオフは、ビリービンに多大な影響を与えたようです。神学校を出、ペテルブルク美術アカデミーに入りますが移動展派に入り、最初は風俗画や版画で活躍、後にパリに留学、帰国後はロシア昔話や「ブイリーナ」(英雄叙事詩)を精力的に描きますが、1880年代からは宗教画を描くようになります。そして、1899年に開いた個展でビリービンが出合い衝撃を受けたのが「三勇士」という作品だということです(『カスチョール』8号より)ビリービンはこの絵との出合いを機に中世ロシア、昔話の世界に目覚めてゆくことになるのですね。


ヴァスネツオフの画集を見ていると、昔話の絵は神秘的でロマンにあふれ確かに魅力的です。壮大さを感じさせる空間描写など、お話の世界の広がり感じられるし、ひいてはロシアの国の雄大さを表現しています。そしてビリービンに影響を与えたという「三勇士」。勇士たちは凛々しく、馬たちの力強いいななきが聞こえてきそうです。ひとことでいえばかっこいい、です。背景には広大なロシアの草原と空が広がります。この草原を吹き抜ける風がビリービンのロシア魂に火をつけたんですね。ただ、描かれた当時はこの一連の昔話系の絵画は、移動展派らしからぬってことで評価されなかったようですが。


「三勇士」(★)雄々しい!
さてさて、ビリービン本人がその「三勇士」に出合うまでの道のりです。まず、1867年、法律家の家に生まれたという資料と医者の家に生まれたという資料があり…。ただ、本人は法律を学ぶために大学に入ったようなので、法律家に軍配でしょうか。医者にしても法律家にしても身分のある知識層出身です。(そしてこのことは、ビリービンを考える上でとても重要だということが今回あらためてよくわかったのですが)幼いころから絵を描き続け絵画教室に通い、そして、大学時代にドイツに留学します(意外に短くて2ケ月だそう)。ユーゲント・シュテイル「現場」に身を置き、その影響をおおいに受けます。



余談ですが、このドイツ滞在中、調べてみたら実はあのスイスの絵本画家エルンスト・クライドルフ!もドイツに滞在していたことがわかりました。どこかで、二人はすれ違っていたかもしれない…。これは私にとってちょっとドキドキするような発見でした!ですが、ギャラリー・トークの時間は短いので、もちろんそんな話はとても挟みこめる余裕はありませんでしたが。



レーピン「ヴォルガの船曳き」
 それで、ビリービンは帰国後(1898年)、イリヤ・レーピン(18441930)に師事します。実は、素人的見地から、ちょっとまって、レーピンといえば写実性・反美術アカデミーの移動展派!ドイツでユーゲントシュテイルの影響を受けて帰ってきたビリービンお坊ちゃん?がなぜレーピンに師事を仰ぐのか…とちょっと思ってしまったのですが、そんなことは思ってはいけない、のですね。ひとことでいえば、偉大なるレーピン先生、ということなのだと思います。素晴らしい師のもと、ビリービンは必死で絵の創作にはげみ、写実表現の腕を磨きます。(資料によると、その後レーピンは、美術アカデミーに戻ってきたそうです。)そしてビリービンは、この流れでレーピンと親しいヴァスネツオフの作品と出合い、本人とも会う機会を得ています。



  そして、このあたりで、ロシア芸術シーンに、アンチ移動展(末期)派の「芸術世界派」が登場してきます。ビリービンもその仲間となります。「芸術世界」とは雑誌の名前で、当時の西欧美術を取り入れつつ、18世紀美術の復興を目指したこの芸術運動はバレエの舞台美術(デイァギレフ率いるバレエ・リュスのパリ公演の成功:ニジンスキーとアンナ・パブロワの公演なども)や装丁などにも及びます。




ベヌア画(※)
ここで、ちょっと「芸術世界」派での代表的な画家といわれているアレクサンドル・ベヌアについて触れておきます。彼が作った「アーズブカ」というロシア語のアルファベット絵本の美しさといったら…!!溜息ものです。




かくして、ビリービンは、この「芸術世界」の挿絵の仕事、そして展覧会での昔話のイラストが目にとまり、1901年~03年にかけての怒涛の6作の絵本出版にこぎつけるわけなんですね。





参考文献:
※『ロシア児童文学の世界』(国立国会図書館国際子ども図書館)
『カスチョール』8号(カスチョール)
★『ヴィクトル・ヴァスネツォフ(18481926)画集』 (大画家シリーズ)露版
『イワン・ビリービン 生涯と創作画集』露版
『ソビエトの絵本1920-1930』(リブロポート)
『スイスの絵本画家 クライドルフの世界』(Bunkamura
『絵本の歴史カレンダー 2014イワン・ビリービン』(東京子ども図書館)


ロシアの絵本・カランダーシ