2014年9月23日火曜日

チェブラーシカ事件簿

『チェブラーシカ』(東洋書店)
  ロシア絵本のネットショップを運営しているので、サイトへのアクセス数はもちろん気になるところですが、少し前、2013年3月のある月曜日の真夜中、ちょっとした「事件?」が起こりました。突然そのアクセス数がびっくりするほどの勢いで急上昇したのです。何かシステム的なトラブルか、とさえ思えるほどの数値でちょっとこわいくらいでした。

 ほどなくその「犯人」がテレビドラマ「ビブリア古書堂の事件簿」であることがわかりました。そのドラマで、当ショップでも当時取り扱いのあった『チェブラーシュカと仲間たち』(新読書社)(現在は品切れ中)が取り上げられたため、多くの視聴者が、夜中にネットで本探しをした、ということなのでした。

 
 最近はテレビ離れが進んでいると思っていたのですが、いやいやどうして、すごい影響力です。でも、一体どうして、その本がそんなにも注目を集めたのでしょう。そう、皆さんがどうしても見たかったのはこの本のチェブラーシカの挿絵だったのです。


 チェブラーシカといえば、どんな姿・形の生き物?そう問われたらどうでしょう。きっと大きな耳にくりくりの目が特徴の茶色い動物を思い浮かべるのではと思います。パペットアニメ映画やキャラクター商品でよくお目にかかるおなじみの「あの生き物」です。


 でも、皆さんが探していた、の挿絵のチェブラーシカは、おなじみのイメージとは全く異なった、一見、タヌキかクマ※のような素朴で不思議な風貌なんですね。一体どういうことなのでしょう。

タヌキ?※
 『チェブラーシカ』(東洋書店)という書籍によると、現在、日本でよく知られるチェブラーシカ像が定着するきっかけは、2001年吉田久美子さんという方の尽力により公開されたパペットアニメーション映画のようです。前述の『チェブラーシュカと仲間たち』が日本に紹介されたのは1976年、(実際に画家アルフェーフスキーが描いたのは1965年)ですから、映画よりも早く日本にやってきたのはこちらのチェブラーシカだということになります。


 でも、映画発表以降、日本ではチェブラーシカはその映画のキャラクターの姿形が広く知られ、大人気に。その人気がロシアに伝わり、本国で魅力が「再発見」され、オリンピックの公式マスコットになったり…という流れもあったりを経て、現在では、日本が、旧ソ連領土以外のチェブラーシカの包括的版権を取得し、様々な商品が生み出されているそうです。ここで作りだされるチェブラーシカ像が、すなわち(概ね)日本でのチェブラーシカ像となっているわけですね。

  本国ロシアではどうかというと、前述参考図書によると、ロシア人にとって、チェブラーシカとはまず、お話を通して、その性格や風貌を皆それぞれが、心の中で想像し、イメージする存在であるということが根底にあるそう。例として「罪と罰」のラスコーリニコフがあげられていましたが、日本だったら、「三四郎」?そう、よく知られたお話の登場人物や動物など考えてみてもいいかもしれません。それらは、時代を越えて、様々な表現で描かれたり、演じたりされるけれども、それぞれの心の中のイメージは自由であり、イメージがひとつに固定されることはない、ロシア人にとってチェブラーシカって、そういう存在だということらしいのです。

 ですから、ロシアでも、その人気や認知度の高さから、映画イメージに近いチェブラーシカの書籍や商品がほとんどのようですが、画家やデザイナーの個性も入っていたりして、日本ほどキャラクターデザインにガチガチな統一性がない、ということにもむすびついてくるようです。(実際問題として、社会主義時代に著作権という考え方がなかったから、画家の数だけチェブラーシカが生まれ、今だにそれが残っているということもあるようですが)

 だとすれば、タヌキさんみたいなチェブラーシカもロシアでは衝撃的違和感はないのかもしれませんね。少なくとも、お話よりも先に映画のキャラクターイメージが定着している日本でよりは。

 さて、1年半ほどたってしまいましたが、先日、やっとそのドラマの原作小説「ビブリア古書堂の事件手帖」(アスキー・メディアワークス)の該当章「タヌキとわにが出てくる、絵本みたいなの」を読みました。
 
 ある女性が小さい頃に読んだ不思議な生き物が登場する本を探す物語で、主人公の古書店の店主が断片的な情報から推理を働かせ、やがて一冊の本、そう、『チェブラーシュカと仲間たち』を探しだします。また、その本の内容と絡めて女性の長年の家族の確執と和解も描かれ、チェブラーシカのキャラクターイメージが今なぜこうのか、などについても触れています。


そうですね。こういう原作がドラマ化されたとすれば…、
確かに本を探したくなりますね。

 
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2014年8月22日金曜日

ボンジュール!フランスのビリービン


 このところ、ずっとビリービンのことを書いているので、たまには別のテーマのことも書こうかな(書きたい…)などと思っていました。でも、今回も、ビリービン!

 

うらわ美術館で開催中の「ボンジュール!フランスの絵本たち」展。フランス絵本の代表的存在、カストール文庫についてはいろいろ知りたいと思っていたので出かけました。ロジャンコフスキーなどは有名だけれど、ロシア絵本の影響というのをどんな感じで紹介しているのか興味もあったので。

 

 カストール文庫創始者のフォシェは、教育においての絵本の重要性を唱え、黄金期ロシア絵本も参考に、ロシアや東欧の作家を起用して新しい絵本作りを始めました。最初の絵本が工作絵本というのも興味深いのですが、これもロシア絵本の手法にならったもので作家もロシア人のナタリー・パラン。

 

 そのナタリー・パランの作品には、ロシアアヴァンギャルド絵本の系譜がみてとれます。その新しくて明るいのびやかな表現は、本国ロシアでは終焉を迎えざるをえなかったわけで、それが、こうしてフランスの地で受け継がれて花開く…絵本を通してあらためて歴史の流れに思いをはせました。そう、その時代、多くのロシアの芸術家がヨーロッパに亡命していました。

 

ナタリー・パラン画(図録より)
 先述したロジャンコフスキーもその一人ですが、実はビリービンもそうだったんですね。そして、カストール文庫にも参加していたのです。そのことを知ってはいたのですが、どんな絵本を作っていたのか、その実際は知りませんでした。もしかすると郷に入れば郷に従えではありませんが、画風をアレンジするようなこともあったのかな、など勝手に思ったりもして、いつかはそのことについても知りたいと思っていました。

 

 そうしたら、展示されていたんです!カストール文庫におけるビリービン絵本の原画が!冷静に考えたら確かに展示されていてもおかしくはないのですが、個人的に全然期待していなかったので、ちょっと勝手に驚いてしまいました。それに、印刷された初版本は見たことはありますが、原画は初めてです。ちょっと感動です。

 

ビリービン画(図録より)
展示されていたのは「小さい金の魚」。こてこてのロシア民話です。画風もあのビリービンそのもの。ああ、ビリービンはどこに行ってもビリービンなのでした。
 

 特に感激したのは、原画5枚の中の1枚、表紙の試作です。(これは残念ながら図録には掲載されていません)ラフな図柄に鉛筆の下書きも生々しいではありませんか。へえ、何だか嬉しい。完成品を畏れ多く見てきた者としては、初めて人間ビリービンを垣間見たような気さえしたわけです。
 
 
 そう、何んといいますか、気分は、ボンジュール!ビリービンっていう感じでまじまじとしばらく原画と向き合いました。
 
 
 暑い暑い昼下がり。出かけていった甲斐あり!でした。

 
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ロシアの絵本・カランダーシ
 

2014年7月24日木曜日

ビリービン再訪(印刷について) 




アリョーヌシカとイワーヌシカより
 1901年から1903年にかけてビリービンの6冊の絵本が出版されました。『イワン王子と火の鳥と灰色おおかみ』『蛙の王女』『鷹フィニストの羽根』『うるわしのワシリーサ』『マリア・モレーブナ』『アリョーヌシカとイワーヌシカ・白い鴨』どれもロシアに伝わる民話の絵本です。ユーゲントシュテイル様式を取り込んだ表現、レーピンから学んだリアリズム表現が見てとれ、民話の世界の神秘性を伝える大変に美しい絵本たちの誕生です。

 

 これらの絵本は国立資料編纂所がドイツから印刷機と技術者を導入し、当時のロシアで最新の技術を見せるために企画されて作られました(「カスチョール6号」)。そして印刷は内閣造幣局(内閣印刷局)が行っています。なんと造幣局!です。最高峰の技術で印刷されたことは間違いありません。その後、ビリービンは、1904年からも同じく国立資料編纂所の依頼でプーシキンの昔話『サルタン王物語』『金鶏物語』の挿絵を手掛けます。これらの作品によりビリービンは、国内はもちろん、西欧でも高く評価され、世界の絵本の歴史にもその名前を残すことになります。

 

 
石版印刷の父
 印刷の方法は多色石版印刷(クロモリトグラフ)です。簡単にいうと平らな石灰石の上に直接絵を描き、水と油の反発の原理を利用して印刷する方法です。その「石灰石」ですが、印刷に適する良質なものは南ドイツでしか採掘されないらしいのです。ということは、ビリービンの絵本の版となった「石」もドイツから輸入していたのかもしれない」そんなふうに思っていたのですが…。


 

実は、このところ印刷のあれこれが気になり、本を読んだり、印刷博物館を訪ねたりしていたのですが、ある時、学芸員の本多さんという方にいろいろ質問をさせていただける機会に恵まれました。特に石版印刷の実際について、わからないことを教えていただいたのですが、ビリービンの時代のロシアの石版印刷の版の石についてもお聞きしました。答えは、ドイツのものを使ったはずだということでした。

 

ということは、印刷機も、10回以上と言われる色を重ねて刷る熟練の技術も、そして版となる石も、全てドイツからの輸入だったわけですね。大成功をおさめたビリービンの絵本の誕生にはドイツの印刷力の大きな後押しがあったわけですね。

 
印刷博物館

それにしても、当時のロシアで最先端の技術を世に示したいという国立資料編纂所の思惑があったにしても、造幣局のような部署で民話絵本を印刷するのには何かピンとこないものもありました。お札を作る造幣局がそんなことをしてもいいのでしょうか。実は、これについては、前述の本多さんから、大変興味深いお話をお聞きしました。それは、造幣局のような部署では印刷技術研究はとても大切なことで、そのために、印刷の「実験」をする…というお話。へえ、なるほど。もしかすると、当時のロシアの造幣局としては、ドイツの新しい石版印刷の機械と多色刷りの技術を、絵本印刷で「実験」するという目的もあったのかもしれませんね。また、実際は造幣局といっても、紙幣だけを印刷するだけではなくもっと幅広い仕事をしていたのかもしれません。

 


ところで、19世紀後半~20世紀初め、世界に目を向けるとでは絵本の印刷には様々な手法が使われていたようです。ケイト・グリナウェイは多色木口木版印刷、エルンスト・クライドルフは多色石版印刷です。そして1902年の『ピーター・ラビットのおはなし』はカラー写真製版による凸版印刷で、この絵本の成功が本格的カラー写真製版印刷の幕開けとなったそうです。

 

印刷という視点で絵本の歴史を見ていくのも興味深いです。

 

参考文献:カラー版「本ができるまで」岩波書店 
     「絵本とイラストレーション」武蔵野美術大学出版局 
    「ロシア児童文学の世界」国立国会図書館国際子ども図書館
 
 
 

 
 
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ロシアの絵本・カランダーシ

2014年6月19日木曜日

ロシア絵本画家と「バレエ・リュス展」

 





初日の国立新美術館の「バレエ・リュス展」に行ってきました。バレエ・リュスとは20世紀初頭のディアギレフ率いるロシア・バレエ団のこと。実はこの展覧会を知ったのがその初日当日の朝。ちょうど、ビリービンのことで「芸術世界派」について今週ブログでふれたばかりだったこともあり、突撃見学することに。

 

昼下がりの乃木坂は曇り空。湿度は高いのでしょうが、気温が低いので助かりました。でも、薄暗い展示室の中に入るとそこはもう別世界、時を経てなお華やかなバレエの衣装の数々が立ち姿で出迎えてくれます。公演ごとにまとめられて配置されている衣装たちの存在感!ディアギレフがパリを始めとする各国の観衆を驚かそう、楽しませようと仕掛けたバレエという「総合芸術」。衣装が特に重要な芸術であったことをその意匠や凝った手仕事からあらためて確認でき、納得です。本来、バレエ衣装は遠くで眺めるもの、こんなに近くでは当時の観客だって見ることはできなかったはず。近くだからこそ、大胆な手縫いの跡や、作り手の工夫や苦労?が見てとれて興味はつきません。

 

「青神」衣装は右端
 一番好きな衣装は、やはりレオン・バクストがデザインした「青神」のチュニックでしょうか。実は男性ダンサーの衣装だという驚きも含めて印象に残りました。パッチワーク、リボンテープ使い、刺繍、それに舞台できらきら光ったであろうビーズ的なものやボタン的なものがこれでもかと施されています。単純にダンサーは重くなかったのかなぁなどと心配になるくらいです。

 

 で、展示されているバレエ衣装の森を歩きながら、ふと、これらの衣装が人々を魅了し続けているのは、当時のダンサーの魂と拍手喝采の記憶が布地にしみついているからなんだろうと考えてみたり。また、そもそも衣装というものは。ダンサーの肉体と合体して初めて完成されるものだとしたら、今、この衣装たちが私たちに見せている姿は、不完全で虚しいもの…というか、実際、ダンサーが着て踊った時に一番輝くんだろうな、それを見たかったなと思ったり。本人?(衣装)たちも、もう一度舞台に立ちたいって思っているんだろうなと思ったり。貴重なものだから無理だけど、回して見せたり、光を当てたりっていう展示があっても面白いかなと思ったり。


図録の付録マンガ!
さて、今回の突撃見学ですが、もしかしたら、ビリービンがデザインした衣装があるかもしれない、舞台美術関連で何か見ることができるかもしれない…そんな期待が実はあったのです。絵本画家の他分野での活躍ぶりの「実際」を是非見てみたかったわけです。バレエ・リュスについては「第一回目の公演にビリービンも舞台美術で参加している」(「カスチョール8号」)とありましたし、衣装や舞台美術で結構活躍したのは確かなので、今回の展示で何らかの彼の仕事が見られるかも…という期待がありました。
 

結論から言いますと、今回展示されている各公演の制作者リストの衣装デザインにも舞台美術にも彼の名前を見つけることはできませんでした。ただ、ざざーっとしかまだ目を通していない分厚い図録「魅惑のコスチューム バレエ・リュス展」の中で、今のところ、たった一か所ですが、ビリービンの名前を見つけることができました。ディアギレフが1908年に上演したオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」についての記述で、第三幕「ポーランドの場」のデザインを担当したアレクサンドル・ブノア※(後述)が、いくつかの衣装はデザイナーのイワン・ビリービンによるスケッチを元に作ったとありました。バレエではなくオペラについての記述ですね。 

ブノアの絵本より
そして、ブノアはビリービンについて「彼はロシアの古い時代の歴史についての最高の有識者の1人だ」と言っています。ビリービンがロシアの歴史・民族研究をかなりやったということは知っていましたが、その研究がたいしたもの!だったという第三者からの証言です。芸術家仲間から一目置かれ、信頼されていたということがこの一文でよくわかりました。

 

 それで、先ほどの※アレクサンドル・ブノワ!ですが私としては絵本画家として知っているアレクサンドル・ベヌアと同一人物だと初めわからなくて、図録で知ってびっくり。(ロシア人の名前の呼び方って…しかし何故にブノア?)芸術世界派の主要メンバーとは知っていましたが、バレエ・リュスで衣装デザイナーとしてこんなにも活躍していたとは。しかも、ビリービンとオペラの衣装についてやりとりをしていたことが今回わかったわけです。

  ビリービンでは果たせませんでしたが、「ロシア絵本的日常」的には、ロシア絵本を通して知った画家の多才能ぶりの実際をブノアで間近に見ることができ、今回の突撃美術館見学はまずまずの収穫でした。行ってよかったです。

ロシアの絵本・カランダーシ

2014年6月17日火曜日

ビリービン再訪(絵本誕生まで)


5月に教文館で2回「ビリービン」と「レーベジェフ」についてお話をする機会を得ました。「島多代の本棚 絵本は子どもたちへの伝言」展でのギャラリー・トークです。そして、それは、私としてみれば、ビリービンとレーベジェフ再訪というか、再発見の機会となりました。当日、お話しできなかったことも含めてここにまとめることにしました。

  第1回目はビリービン。
 ざっくりとした生涯と作品は把握しているつもりだったのですが、さらに「へえ」とか「ほお」とか「だからなのか」とか「それにしても」とひとりごちながら、あらためて人となりや作品を知っていくこととなりました。トークのテーマは「ビリービンからの伝言」としました。展示会のテーマにかけたのですが、短い持ち時間(30分)だからこそ、テーマを設けて内容を収斂させなくては…との願いもありました。

 

【ビリービン絵本誕生まで】

今回のトークの準備では、09年の島多代氏の講演会でとったメモにあった「全ては関連している」という言葉が指針となりました。その絵本なり作家なりの経歴はもちろんですが、その背景、周辺を知るということですね。準備の時間は限られていましたし、できる範囲ででしたが。

 
イワン・ビリービン(☆)
まずは、歴史的背景のおさらいです。ビリービンが生まれたのは1867年。活躍したのが1900年初頭~。このあたりは帝政崩壊前夜。1861年に農奴解放がありましたが、生活が変わらぬ農民たちの運動、労働者のストライキ、ナロード運動(人民の中へ)などが高まりを見せ、19世紀終わりには社会主義党の誕生、1904年に日露戦争がはじまり、それがますます人民の生活を苦しめ、05年には血の日曜日事件が起こり…そして1917年の革命へ。とんでもなく大きな歴史の変化の波。その中でビリービンは何を思って絵本を作ったのか、ということになります。 



さて、一方で、ロシアの絵本の歴史を資料でたどります。おおざっぱにいえばビリービンからその歴史が始まったという記述も多いですね。ロシア絵本の一番星ビリービンです。しかし、「それ以前」および同時期の絵本についても(もったいない!ので)ここでは触れたいと思います。




ポレーノワ画(※)
 『ロシア児童文学の世界』(国立国会図書館国際子ども図書館刊)によると、19世紀後半、それまでは一部の貴族のためだけに作られていた挿絵入り児童文学書が、印刷技術の発達もあり安価になり市場に流通するようになり、西欧の模倣翻訳絵本などが出回りましたが、内容的な「質」はあまり高いものではなかったようです。これを「大衆児童文学のブーム」の時代というようです。

 しかし、これに対抗して、V.ヴァスネツオフ(18481926)、エレーナ・ポレーノワ(184198)、そしてエリザベータ・ビヨーム(18431914?)などが芸術性の高い絵本を発表しています。ヴァスネツオフは「移動展派」(ペテルブルク美術アカデミーに対抗する写実主義の画家たち、移動展覧会を各地で開く)の画家です。ビヨームは影絵作家としても活躍した女流画家です。




眠り姫(★)美しい!
  その中でもヴァスネツオフは、ビリービンに多大な影響を与えたようです。神学校を出、ペテルブルク美術アカデミーに入りますが移動展派に入り、最初は風俗画や版画で活躍、後にパリに留学、帰国後はロシア昔話や「ブイリーナ」(英雄叙事詩)を精力的に描きますが、1880年代からは宗教画を描くようになります。そして、1899年に開いた個展でビリービンが出合い衝撃を受けたのが「三勇士」という作品だということです(『カスチョール』8号より)ビリービンはこの絵との出合いを機に中世ロシア、昔話の世界に目覚めてゆくことになるのですね。


ヴァスネツオフの画集を見ていると、昔話の絵は神秘的でロマンにあふれ確かに魅力的です。壮大さを感じさせる空間描写など、お話の世界の広がり感じられるし、ひいてはロシアの国の雄大さを表現しています。そしてビリービンに影響を与えたという「三勇士」。勇士たちは凛々しく、馬たちの力強いいななきが聞こえてきそうです。ひとことでいえばかっこいい、です。背景には広大なロシアの草原と空が広がります。この草原を吹き抜ける風がビリービンのロシア魂に火をつけたんですね。ただ、描かれた当時はこの一連の昔話系の絵画は、移動展派らしからぬってことで評価されなかったようですが。


「三勇士」(★)雄々しい!
さてさて、ビリービン本人がその「三勇士」に出合うまでの道のりです。まず、1867年、法律家の家に生まれたという資料と医者の家に生まれたという資料があり…。ただ、本人は法律を学ぶために大学に入ったようなので、法律家に軍配でしょうか。医者にしても法律家にしても身分のある知識層出身です。(そしてこのことは、ビリービンを考える上でとても重要だということが今回あらためてよくわかったのですが)幼いころから絵を描き続け絵画教室に通い、そして、大学時代にドイツに留学します(意外に短くて2ケ月だそう)。ユーゲント・シュテイル「現場」に身を置き、その影響をおおいに受けます。



余談ですが、このドイツ滞在中、調べてみたら実はあのスイスの絵本画家エルンスト・クライドルフ!もドイツに滞在していたことがわかりました。どこかで、二人はすれ違っていたかもしれない…。これは私にとってちょっとドキドキするような発見でした!ですが、ギャラリー・トークの時間は短いので、もちろんそんな話はとても挟みこめる余裕はありませんでしたが。



レーピン「ヴォルガの船曳き」
 それで、ビリービンは帰国後(1898年)、イリヤ・レーピン(18441930)に師事します。実は、素人的見地から、ちょっとまって、レーピンといえば写実性・反美術アカデミーの移動展派!ドイツでユーゲントシュテイルの影響を受けて帰ってきたビリービンお坊ちゃん?がなぜレーピンに師事を仰ぐのか…とちょっと思ってしまったのですが、そんなことは思ってはいけない、のですね。ひとことでいえば、偉大なるレーピン先生、ということなのだと思います。素晴らしい師のもと、ビリービンは必死で絵の創作にはげみ、写実表現の腕を磨きます。(資料によると、その後レーピンは、美術アカデミーに戻ってきたそうです。)そしてビリービンは、この流れでレーピンと親しいヴァスネツオフの作品と出合い、本人とも会う機会を得ています。



  そして、このあたりで、ロシア芸術シーンに、アンチ移動展(末期)派の「芸術世界派」が登場してきます。ビリービンもその仲間となります。「芸術世界」とは雑誌の名前で、当時の西欧美術を取り入れつつ、18世紀美術の復興を目指したこの芸術運動はバレエの舞台美術(デイァギレフ率いるバレエ・リュスのパリ公演の成功:ニジンスキーとアンナ・パブロワの公演なども)や装丁などにも及びます。




ベヌア画(※)
ここで、ちょっと「芸術世界」派での代表的な画家といわれているアレクサンドル・ベヌアについて触れておきます。彼が作った「アーズブカ」というロシア語のアルファベット絵本の美しさといったら…!!溜息ものです。




かくして、ビリービンは、この「芸術世界」の挿絵の仕事、そして展覧会での昔話のイラストが目にとまり、1901年~03年にかけての怒涛の6作の絵本出版にこぎつけるわけなんですね。





参考文献:
※『ロシア児童文学の世界』(国立国会図書館国際子ども図書館)
『カスチョール』8号(カスチョール)
★『ヴィクトル・ヴァスネツォフ(18481926)画集』 (大画家シリーズ)露版
『イワン・ビリービン 生涯と創作画集』露版
『ソビエトの絵本1920-1930』(リブロポート)
『スイスの絵本画家 クライドルフの世界』(Bunkamura
『絵本の歴史カレンダー 2014イワン・ビリービン』(東京子ども図書館)


ロシアの絵本・カランダーシ

2014年1月19日日曜日

動物に服を着せること…ラチョフの挑戦


 
どちらも人間のよう
ラチョフが描く服を着た動物たち。
動物ですが人間くさい。でも、はらりと服を脱げば、あっと言う間に4脚歩行でどこかに逃げていきそうな動物としてのリアルもしっかり持っている。(後年は軽快な表現になっていったようですが)リアルすぎて、「挿絵のこの狼はこのうさぎを次の瞬間食べるかもしれない」なんて思ったり。そんなぞわぞわとした緊張感もありますね。

 

さて、
1930年代後半からは社会主義リアリズム表現以外認められないなくなった時代に突入するわけですが、もともと写実的な動物画を描いていたラチョフですから、大きな影響はなかった。…と思っていましたが、そんなことはなかったようですね。

 

第二次大戦後、復員したラチョフは、ある日、動物民話の挿絵の依頼を受けます。動物民話とは、もともと動物そのものの特性をいかして作られたものではなく、動物に人間性を投影したお話です。これを表現するために、ラチョフは初めて動物に服を着せてみたそうです。服を着せたとたん、動物たちは動物でありながら人格をもった人間のような存在となり民話の世界でいきいきとその役割を果たし始めました。ラチョフにとってこれは大きな発見であり、新たなる境地への第1歩だったのです。

 

動物表現のリアルさ
でしたが、でしたが、
出版社はこの挿絵の採用に数か月も「待った」をかけたそうです。ラチョフは民族性や職業や階級や貧富の差などを服装でそれこそリアルに表現しましたから、挿絵の動物たちには人間社会が色濃く反映され、その動物たちが「社会的な存在」として体制批判を表現しているように見えるのでは?と思われたのが原因だったのです(参考:「カスチョール21号」)

 

そのような状況であっても、ラチョフは服を着せる方向性を変えませんでした。動物に服1枚着せること、それは、その時代、覚悟のいる挑戦だったんですね。「私は昔話の本質‐動物が、同時に性格の特徴や人間関係に対する評価をも伝えるという本質を描きたいのです。私は何よりもこのことに惹かれています」(「カスチョール11号」)

 

そう、そう、
ラチョフはとりわけ動物民話の挿絵を描くことを喜びとしていました。動物と民話と…。この二つは、大自然の中、母親と離れ祖母と暮らしたラチョフの少年期の心を育んだ、ある意味、大切な友人とも、教師ともいえるような、そんなとても身近で大切な存在でしたね。動物は間違いなく、そう。民話についても、きっと、たぶん、そう、だと思っています。

 

スタイリッシュ?
もちろん、私はラチョフのすべての作品を知っているわけではないのですが、民話以外のお話の挿絵もいくつか見たことがあります。風刺のきいたなかなかスタイリッシュな動物たちが登場する挿絵絵本なども描いていますね。それはそれでとても素晴らしく魅力的です。でも、ラチョフの真骨頂はやはり動物民話画にあるといえるのではないかなと思っています。

 

「わたしは動物の絵をかくのが大好きです。わたしは動物に洋服を着せたり、ステッキを持たせたりと、人間のようなイメージを重ねてみるのが好きだからです。キツネにはずる賢さ、クマには人の良さなど…。そうした想像をしながら絵をかくと、楽しくて、楽しくて時のたつのを忘れてしまいます。…」(学研ワールド絵本224号「ねことつぐみとおんどり」あとがきより)

 

「楽しくて、楽しくて」ですか。それはよかった!


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 ラチョフ画「うさぎのいえ」
 ロシアの絵本・カランダーシ